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「吉助」という屋号について

お米をネットで販売するにあたって、

何かお店の名前があった方がいいなと思い、

あれやこれやと考えるまでもなく

「吉助(きちすけ)」にしとくか!と思い至りました。


というのも、能登島ではそれぞれの家の苗字(姓)とは別に屋号(ヤゴ)が存在していて、我が室屋家は昔から「吉助」と呼ばれていました。


田舎なので同じ苗字が近所に何軒もあったりしますが、屋号で呼ぶことでどの家かはっきりとします。


他の集落の人に名乗るときも「長崎の室屋です」と言うと、


「どの室屋や?」などと聞かれ、


「吉助です」と答えると


「あーわかった!」という流れが定番です。


外で使う道具などに書かれる名前も「吉助」だったりします。そういえば吉助と書かれたバケツがゴロゴロありました。


ご近所さんの屋号もいろいろでした。

サンスケ、シタノウチ、サンペイ、ニヘ、ゴヨモなどなど。

そんな感じで子供のころから我が家は当然のようにキチスケだったわけですが、

なぜ吉助なのかと聞かされたこともなければ考えたこともありませんでした。

いや、聞かされたことはあったかもしれないけれど、まるで興味がなくて記憶の片隅にすら残っていなかったといった方がいいかもしれません。



吉助というのが我が家の初代の戸主の名まえだったと知ったのは

令和6年に起きた能登半島地震がきっかけでした。


この地震で私の実家も半壊して、約半分を解体して建て直すことになりました。

ありがたいことに解体費用は公費で負担していただけるという事だったのですが、その際に提出する書類などたくさんある中で家の権利関係を明らかにする登記や戸籍などを役所で一通り取り寄せました。


その中に室屋吉助という名前を発見しました。


文政10年10月8日生まれという記録が残っていました。文政10年は西暦でいうと1827年です。

吉助が本家から分家して今の家ができたのでした。


ちなみに本家様の屋号は「吉兵衛」です。

当時の室屋家では名前に必ず「吉」の字が入っていたそうです。

戸籍を見ると私の曽祖父「吉松」まで吉の字が使われていました。


戸籍を見ていると昔は今よりずっとアクロバティックなことが行われていたようです。

よそに婿に行っていた次男が、長男がなくなった後に戻って長男の嫁と再婚したり、隣の家のダンナがなくなったらお隣から婿をとったり、こんな話はしゃば中にあったようです。


当時は若くして亡くなる人が少なくなかったというのもありますが、「家」を存続させようという考えが今よりずっと強かったんだろうなと思います。


そんなわけで、どうにかつながってきた我が家も初代吉助から数えて私で6代目という事になります。


吉助が米作りをしていたかどうかは定かではありませんが、私は今、生まれ育ったこの能登島長崎の土地で米を作っています。


代々この土地や景観を守ってきたご先祖様たちや集落の人々への愛着とリスペクトをこめて、「能登島長崎の農家 吉助」と名乗らせてい頂きます。


この土地で丁寧に育てたお米をぜひ味わってみてください。